倫理学

浅い気づき、普通の気づきとは

気づく事は、魂の成長になります。

まぁ人によっては魂とはなんぞや?どこにあるのだ?と思われる方も多いと思いますが、私の考えでは気づいた事で自然に行動が起きた時のエネルギーが魂の意思なのではないかと思っております。

つまり、人は何かに気づけば、それが自然と行動に現れます。

そして、人は行動してこそ成長があるのです。

逆に言えば、気づく事が成長する事とも言えます。

例えば、上司と部下の関係で例を上げてみます。

上司が部下に対して、好結果を求める余りに一方的に話しをし、部下の足りない部分にスポットを当てて部下を責める気持ちで一生懸命に諭そうとしているとしましょう。

それを聞いている部下の人は、何を思っているかと言えば、上司の話が早く終わらないかなと考えています。

つまり、なるほど!とかそうかぁ・・とか感情が伴わないわけです。

そして、話しが終わればはぁやっと上司の話が終わった。それでおしまいです。

これでは、部下に何を何回言っても堂々巡り、いつも同じ話をするしかなくなるわけです。

つまりは、極々浅い気づきにしか成りえないのです。

「いい話だったね」とか「注意された」位ですね。

気の進まない講演を聞いた後の感想程度です。

これでは、朝起きたらもう忘れているでしょうね。

しかし、そういう極々浅い気づきも繰り返して行く事で普通の気づき位にはなります。

まぁ、耳タコ位時間が必要ですが・・・

それから、何か体験をした結果気づくことも、普通の気づきです。

普通くらいの気づきとは、このご時世に歩きタバコをするのは非常識ですし挙句にその吸殻を道に捨てると言う行為は、非常識以上の極悪だと言う知識は誰でもが持っています。

しかし、実際に知識で知っているだけなので、平気で捨てる人は後を絶ちません。

美意識のかけらも無いわけです。

そんな人がある日、やっと買った高額なリネンのジャケットを着て街を歩いていたとします。

その日は、とても風の強い日でした。

前を歩いている人が、ふとタバコをポイ捨てしました。

吸殻は強風と言う魔法の絨毯に乗り、その人のジャケットめがけて飛んで来て、リネンジャケットに当たり、リネンジャケットに小さな焦げ後をつけたら・・・・

その人は、当然のこと怒り心頭なのでしょうが、タバコのポイ捨ては思わぬ事を引き起こすものだという事には気づくでしょう。

そして、恐らくその人が歩きタバコをする時には、タバコのポイ捨てはしなくなるでしょう。

微小な事ですが、これも美意識に目覚めたと言えます。

しかし、これは普通位の気づきなので、「そうだ火を消せばポイ捨てしても大丈夫」と火を壁に押し当てて消してから、又道にポイ捨てをしてしまうかもしれません。

これは、歩きタバコをしていて、捨てる所が見つからないと言う逆境に立たされた結果とってしまう行動なわけです。

結果、何も変わらず・・・・

人間という生命体は、人が見ていなければイケナイ事だと分かっていてもやってしまう生き物なのです。

つまりこの場合で言えば、美意識を向上・成長させるには自己の精神成長が伴わなければ培えないという事です。

かの、エドガーケイシーは、カルマの事をこう述べています。
「正しいとわかっていることを無視して作り上げてきたものがカルマです。」

カルマとは?ウィキペディアで調べると、仏典などの日本語での解釈では「業」という意味合いで使われる。サンスクリット語では「行為」、または行為の結果として蓄積される「宿命」と訳される。カルマは「過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる。」という因果応報の法則のことであり、インド占星術の土台であるヴェーダ哲学の根底に流れる思想である。と書かれていますが、私の解釈では生きる事に際しての課題やテーマであると思っています。

要するに生きながら日々の生活の中でカルマをクリアして行く事が洗練された美意識を育てて行くのです。

次回はでは、深い気づきとはどういう事でしょうか?について書いて行きます。